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更新日:
2024年7月14日
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◎今半別館(2023年6月2日)
「今半別館」は東京都台東区浅草に本社がある有限会社今半別館(代表者:長美勝久)が運営しているすき焼き、しゃぶしゃぶ、日本料理のお店です。
「今半」という店名のお店は東京都内に5社ありますが、いずれもルーツは1つだそうです。それぞれのお店からの情報をまとめると次のようになりそうです。多分、「今半」の創業者は2人いたのではないでしょうか。2人とも備前の国(岡山県)の出身で、1人は高岡伴太郎氏(高岡常太郎から改名)、1人は相澤半太郎氏だと思われます。
高岡伴太郎氏は岡山より状況し、畜産の仕事をし、1895年(明治28年)4月、63歳で本所吾妻橋(現在の東京都墨田区の本所)に牛鍋屋を開店したようです。当時、牛鍋は最先端の人気料理だったそうで、東京には500店以上の牛鍋屋が軒を連ねたそうです。高岡伴太郎氏は、この時代の流れに乗って牛鍋屋を開業したようです。
一方、相澤半太郎氏は1895年(明治28年)に18歳で東京に出てくると、割烹業で生計を立てていたようです。
そして牛鍋屋の二代目、高岡耕治氏が遠縁にあたる相澤半太郎氏と共同経営にて1912年(大正元年)6月、浅草雷門に「今半」を開店したそうです。牛鍋屋が好調で、お店の規模を大きくしたようです。そのためには資金も必要だったでしょうから、共同経営にしたのでしょう。したがって「今半」の創業者は2人だと考えられます。またこの時、当時、大衆料理になっていた「牛鍋」から、高級料理の「すき焼き」の店に方向を変えたようです。
今半本店のWeb siteに相澤半太郎氏の墓石の写真があり、当人が「明治28年に東京に来たこと」、その後、成功し「大正7年6月11日に自ら墓石を建てた」ことが書かれていますので、相澤半太郎氏が1895年(明治28年)に東京に出てきたことは間違いないと思います。もしかしたら、岡山で板前の修業をしていて、高岡伴太郎氏が牛鍋屋を開店しようと考えた時、遠縁に板前がいると聞いて、相澤半太郎氏を東京に呼び寄せたのかもしれません。
店名の「半」は、高岡伴太郎氏と相澤半太郎氏の2人とも名前に「半」がついていますので、ここから取ったものと思います。二代目、高岡耕治氏が創業者であるものの、高岡伴太郎氏の牛鍋屋を引き継いでいる、ということかもしれません。「今」についてははっきりしていないようですが、当時最先端の食であった牛鍋を提供していたことから、現代風という意味の「今様」という言葉から取ったとする説、当時、政府公認の食肉処理場が今里町(現在の港区白金)にあったことから、安心安全な今里の肉を使っているということをアピールするために「今」としたなどの説があるようです。
「今半」は繁盛したようです。1921年(大正10年)に暖簾分けで「今半別館」が独立しました。当初は東京府東京市芝区三田にお店がありました。しかし、太平洋戦争末期に店舗が建物疎開のため、取り壊さてしまったそうです。終戦後、1950年(昭和25年)、浅草の伝法院通り近くに店舗を開き、営業を再開しました。この店舗は、本家、「今半」の「今半御殿」をイメージして造ったそうです。
数寄屋造りの木造2階建てで、天井や欄間などに施された彫刻は、富山県から呼び寄せた井波彫刻の職人と、地元浅草の職人に腕を競わせたものだそうです。細い材の組子や花形の隅板を多用した建具は、造られた当時「くどい」との批判もあったそうですが、後に目黒雅叙園など、日本各地の料亭、旅館でも同様の建具が使われるようになったそうです。
今半別館の建物(北棟、南棟、玄関棟)は、2003年(平成15年)に文部科学大臣により有形文化財として登録されています。
・今半別館
住所:東京都台東区浅草2-2-5
TEL:03-3841-2690
営業時間:11:00〜15:00、16:30〜21:30
定休日:無
駐車場:無
アクセス:東武、浅草駅から徒歩約5分
カード:可(VISA、Master、JCB、AMEX、Diners)
席数:120席
オープン日:1921年(大正10年)
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