マクドナルド

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更新日:
 2025年9月14日



◎マクドナルド(2025年9月14日)
 マクドナルドは日本だけでなく、世界中にチェーン店がある超有名なファストフードのお店です。あらゆる国で展開されていることから、世界各国の経済力を「ビッグマック」の価格で比較するという手法もあり、この指標は「ビッグマック指数」と呼ばれ、利用されています。
 最初のマクドナルドは1940年5月15日にディック・マクドナルド(Dick McDonald)とモーリス・「マック」・マクドナルド(Maurice "Mac" McDonald)の兄弟が、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンバーナーディーノ(San Bernardino)に小さなハンバーガー店、「マクドナルド・バーベキュー(McDonald's Bar-B-Q)」を開業したことから始まりました。
 当初はバーベキューを主体とするメニューが中心だったそうですが、売上の80%がハンバーガーであることに気づくと、兄弟は大胆に方向転換し、シンプルで効率的な調理プロセスを確立したそうです。これが「スピーディーサービスシステム」として知られるマクドナルドの象徴的なオペレーションだそうです。
 一時閉店した後、1948年12月に再オープンしたお店は、販売するアイテムを9つに減らし、調理時間を最短化するための新しいキッチンプロトコルを導入しました。特注の高速グリルや使い捨ての食器を用いた衛生的かつ効率的なシステムを導入し、作業を標準化したそうです。そして若い青少年を従業員として採用することでコスト削減と柔軟性を実現したそうです。その結果、ハンバーガーは15セント、チーズバーガーは19セントという価格で提供ができるようになったそうです。またコーヒー、コーラ、オレンジソーダなどのドリンク類は、それぞれ10セントだったそうです。「スピード・サービス・システム」の売り文句と、工場式のハンバーガー製造方法、そしてセルフサービスの仕組みによって同地域で有名になっていったそうです。
 1954年、ミルクシェイク用のマルチミキサーの全米販売権を持って販売をしていたセールスマンだったイリノイ州出身のビジネスマン、レイ・クロック(Ray Kroc)は、マクドナルド兄弟からミキサー8台の注文を受け、カリフォルニアに出向いて、その店の内部を見学したそうです。通常なら1店舗に1〜2台で十分なミキサーを8台も注文したことから興味をもっていたクロックは、一体、どのような繁盛店なのか自分の目で確かめてみたいと思っていたそうです。
 クロックは、そこで驚くべき光景を目にしたそうです。ランチタイムにはまだ少し早い時間なのにもかかわらず、マクドナルド兄弟の店のカウンターには長蛇の列ができており、しかも従業員は客の注文をものすごいスピードで右から左へとさばいていたそうです。その時間は1人あたりわずか15秒もかからない短さで、猛烈な勢いでハンバーガーやフライドポテト、ミルクシェイクが売れていたそうです。複数のミキサーが必要になる理由は一目瞭然だったそうです。
 店内を見学したクロックは、その手法とシステムにさらに驚愕したそうです。マクドナルド兄弟は独自のシステムを開発することによって、調理手順の無駄を無くしていたそうです。しかも店は清潔でハンバーガーの味は言うに及ばず、低価格を実現していました。
 当時、52歳のクロックは「業務効率の高さに衝撃を受け」、「これがビジネスにならないわけがない」と直感し、チェーン展開したいと考えたそうです。そしてクロックはマクドナルド兄弟を説得し、1955年にフランチャイズ権を獲得し、その年に最初のフランチャイズ店をイリノイ州デスプレーンズにオープンしました。オープン初日の売り上げは366ドルだったそうです。
 しかし、その後、マクドナルド兄弟がクロック以外の人物にフランチャイズ権を5000ドルで売ったことが判明したそうです。クロックは口約束のみで、兄弟とは正式な契約書を交わしていなかったそうです。そこでクロックは2万5000ドルを支払ってフランチャイズ権を取り戻したそうです。
 そしてフランチャイズ展開を行い、翌1956年には11号店にまで店舗が広がったそうです。1958年までにマクドナルドは1億個のハンバーガーを売り上げ、さらに1960年には全米で200店舗になったそうです。そこでクロックは、社名をマクドナルド・コーポレーションと変更したそうです。
 翌1961年、マクドナルド兄弟が全ての権利を売りたいとクロックに言ったそうです。兄弟が提示したのは270万ドルで、クロックにとってはフランチャイズで得た利益の15倍もの金額だったそうですが、何とか金をかき集め、契約したそうです。そしてフランチャイズ展開を広げるとともに、「ゴールデンアーチ」と呼ばれる黄色いアーチ状のロゴを導入したそうです。そして1968年にはビッグマックがメニューに追加されました。
 そんなマクドナルドが日本で普及したのは藤田田(ふじたでん)氏のおかげです。1950年(昭和25年)、東京大学法学部在学中に個人経営の貿易会社として藤田田が藤田商店を創立しました。世界中を飛び回っていた藤田氏は、アメリカのマクドナルド・コーポレーションが日本進出を考え、業務パートナーを探しているという情報を得ると、すぐにマクドナルド・コーポレーションの創業者、レイ・クロックと接触したそうです。しかし、それまでに大手商社などいくつかの日本企業が接触しており、資本力が小さい藤田商店は厳しい状況だと思われました。しかしクロックは藤田氏の国際的な感覚、コミュニケーション能力、語学力、そして大企業のように事業部の一部ではなく、起業家精神でマクドナルドビジネスにかける一途な姿勢から、パートナーに選んだそうです。
 藤田氏は1971年(昭和46年)5月1日に日本マクドナルド株式会社を設立しました。マクドナルド社と藤田商店の折半での出資、いわゆる合弁会社だったそうです。クロックはアメリカと同様に郊外型の店舗で展開するように指示していたようですが、藤田氏は「銀座が流行の情報発信基地だから、銀座で話題になれば商売も必ず成功する」と考え、1号店の出店は銀座に決めていたそうです。また、銀座三越が交差点角という絶好の立地条件からであったことから「ここしかない」と考えた藤田氏は三越に直談判に行ったそうです。当時、藤田氏と掛け合った銀座店の店長で、後に社長となった岡田茂氏から「三越の営業の邪魔にならぬよう、火曜日朝に開店できるなら出店してもらっても構わない」と言われたそうです。当時、銀座三越は月曜日が定休日だったことから、この言葉は「日曜日の閉店時刻(18時)から火曜日の開店時刻(10時)までに、水周りを含めた全ての作業を終わらせた上で開店させることができるなら、出店を許可する」という意味でした。
 作業できる時間は実質40時間しかなかったそうですが、銀座三越にこだわった藤田氏は都内の空き地で銀座三越の出店予定スペースを再現し、作業員に何度も何度もシミュレーションさせたそうです。最初は設営に60時間近くかかったそうですが、次第に手際が良くなり、39時間足らずで作業を終わらせることができるようになり、出店にこぎつけたそうです。
 一方、マクドナルドの米国本社は、1号店の出店場所は米国と同じく自動車で来店できる郊外を指定しており、「自転車、自動車で立ち寄れる郊外が基本」と主張してきたそうです。藤田氏は茅ケ崎に出展する計画を同時に進行させながら、銀座を1号店とする計画を極秘に進めたそうです。藤田氏は、銀座でヒットすれば全国が注目する、一方、郊外ではそれほど注目されないと考えていたためだそうです。開店2日前、米国の幹部がセレモニー出席のため来日したそうですが、茅ケ崎の店舗は営業許可が降りておらず、しぶしぶ銀座を追認したそうです。
 そして1971年7月20日(火)、マクドナルドの1号店が東京、銀座の三越デパートの1階にオープンしました。店舗の面積は22坪、129平方メートルと非常に小さく、持ち帰り専門店で客席はありませんでした。三越デパートの他の売場やテナントを動かすことなく、通り沿いの空きスペースを利用した場所で、かつ営業時間などにも様々な制約があり、出店条件はけして良くはなかったそうです。ただ、翌7月21日付の朝日新聞の朝刊、経済面に「本場の味をどうぞ=@ハンバーガー銀座に進出」と載るなど、大きなニュースになったようですので、藤田氏の作戦は当たったのかもしれません。
 開店初日に壁に掲げられたメニューボードには「ハンバーガー80円、チーズバーガー100円、ビッグマック200円、フィレオフィッシュ100円、マックフライ70円。マックシェイク120円、コーヒー50円、コカコーラ50円・100円、ファンタ50円・100円」などと表示されていたそうです。
 当時、タクシーの初乗りが130円だったそうです。2017年1月に改訂される前は、初乗り運賃は730円でしたので物価は5.6倍に上がっていると考えられます。また、当時の大卒の初任給が4万円で現在が22万6,000円くらいとすると、やはり物価は5.6倍くらいに上がっていると考えられます。当時80円のハンバーガーは、現在の価格では450円くらいになりますので、結構、高いイメージです。初日の売上げは約40万円だったそうですが、目標の100万円には遠く及ばなかったそうです。
 開店初日こそ話題になったようですが、そのうちに客足が伸びなくなったそうです。1時間、誰も来ない日もあったそうです。ハンバーガーの知名度が無い上に店内で食べるための席がないことから、ベンチで食べるとか歩きながら食べることになりますが、行儀が悪い行為とされていた当時、大人の街、銀座にはなじまなかったようです。店先の陰に隠れて食べる人もいたそうです。雨が降ると、開店休業状態になったため、店員はてるてる坊主をつるして、晴天を願ったそうです。
 そんな苦戦していたマクドナルドに転機が訪れたのは、営業を始めて数週間後の1971年8月15日の日曜日だったそうです。店の前に現れた若い外国人たちが黄色の「Mマーク」の看板を指さし、興奮した様子で「オーマイゴッド」と叫びながら店内になだれ込み、英語で次々と商品を注文したそうです。50〜60人くらいいたそうです。商品を買うと、そのまま目の前の「銀座通り」に座り込んでハンバーガーにかぶりついたそうです。当時は歩道と車道の段差は現在よりも高かったそうです。若者たちは歩道を椅子代わりにして車道に足を投げ出して座り混み、ワイルドにハンバーガーを頬張っていたそうです。
 また、コーラを片手に、歩きながら食べる人もいたそうです。日本人にとって行儀が悪い行為でしたが、若い外国人達が自然にやっていると、とても美味しそうに見えたそうです。当時、銀座通りでは日曜日と祝日に「歩行者天国」としていたため、多くの人が行き交っていたそうです。外国人の食べながら歩いている姿を見て、格好良いと思った日本人の若者達が次々と店に来るようになり、マクドナルドの知名度とハンバーガーの美味しさが広まったそうです。
 このマクドナルドの繁盛のきっかけを作った外国人の集団は、静岡県で行われたボーイスカウトの世界大会の参加者達だったそうです。ボーイスカウトの世界大会である第13回世界ジャンボリーが1971年(昭和46年)8月2日から8月10日にかけて静岡県富士宮市の朝霧高原で開催されていました。世界各国、87カ国から参加していた若者達は、ジャンボリーが終了し、都内に観光に訪れていたそうです。制服姿で立ち寄った銀座で、マクドナルドがあることに驚き、慣れ親しんだ味を求めて来店したようです。
 この日を境に若者や女性の来店が一気に増えたそうです。また、店先の陰に隠れて食べる姿はなくなったそうです。手づかみで頬張るのが「おしゃれ」になり、誰もが堂々と立ち食いを始めたそうです。1号店が店内に席を確保できず、テイクアウト専門店となったことは結果的に「食べ歩き」を日本に浸透させるのにプラスに働いたようです。また、車道に置かれたテラス席でハンバーガーの袋を開封しながら仲良く語らうカップルの姿が見掛けられるようになったそうです。休日に歩行者天国の銀座にやってきた人々は、そんな新しい食習慣を目の当たりにし、自分もやってみたいと思うようになります。その結果、週末には売場のカウンターには行列ができるほど繁盛するようになったそうです。
 オープンから1年が過ぎた1972年10月1日には1号店の1日の売上げは221万6730円に達し、世界中に2000店舗以上あったマクドナルドチェーン店のなかでも1番の数字を記録したそうです。
 ただ、マクドナルドの賑わいは新たな火種を生んだそうです。歩きながら歩いている人や、歩道でハンバーガーを食べている人をみて「見苦しい」と銀座三越に苦情が寄せられるようになったそうです。「放っておくとまずい」と考えた当時の店長は、歩行者天国の日には、座って食べられるように道路にイスやパラソルを設置したそうです。また、昼過ぎになると、三越の担当部署や近くの交番に足を運び、アップルパイとコーヒーを差し入れたそうです。さらにポイ捨てを防ぐため、数十個のゴミ箱を路上に置き、清掃専門のスタッフを20人雇って対応したそうです。このような対応の結果、マクドナルドの知名度が上がり、この店舗は大変な評判になり、日本各地に続々と店舗が設けられるようになったそうです。
 この1号店は1984年11月に閉店しています。閉店の理由は、三越側との契約の終了だったそうです。オープンから13年、銀座に新風を吹き込んだ店は姿を消しました。マクドナルドは創業の地である三越百貨店1階から撤退し、少し離れた晴海通り沿いの雑居ビル1階に移転しました。移転後の第1号店は「マクドナルド 晴海通り店」と呼ばれました。ただ、こちらの銀座晴海通り店も、近隣の再開発のため2007年5月31日(木)をもって閉店してしまいました。