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更新日:
2025年10月18日
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◎築地 銀だこ(2025年10月12日)
「築地 銀だこ」は東京都中央区に本社がある株式会社ホットランドホールディングス(設立:1991年(平成3年)6月、資本金:33億1,307万4,900円、代表取締役社長:佐瀬守男(させもりお))が展開しているタコ焼きのお店です。
創業者である佐瀬守男氏は1962年(昭和37年)10月16日に群馬県桐生市に生まれ、群馬県立桐生南高等学校を卒業すると東京YMCA国際ホテル専門学校に進学しました。それまで野球に打ち込んでいたものの高校3年の夏の大会で敗退すると、打ち込むものがなくなり、何もする気が起きず、食べる気も失せ、廃人のようになったそうです。そんな時、田宮二郎主演の「高原へいらっしゃい」というドラマの再放送を見て、ホテルを再建していく物語に感動し、何かを作り上げていくことに共感し、「ホテルマンになろう」と思い、「いつかは小さな高原ホテルを作る」というのが夢になり、ホテル学校に進学したそうです。
専門学校を卒業すると、料理を覚えようとレストランに勤めたものの、上下関係は厳しく、皿洗いぐらいしかやらせてもらえなかったそうです。それでは独立なんて不可能だと思い、そこを辞めると、その後は職を転々としたそうです。
その後、1983年4月に家業の有限会社佐憲鉄工所に入社し、働いていたそうですが、24歳の時、近くにできたマクドナルドを見て、「俺がやりたいのはこれだ」と思ったそうです。マクドナルドに行くとアメリカの窓のような、アメリカが見えるような印象を受けたそうです。そこで、自分も同じことをやりたいと思ったそうです。しかし自分は日本人なので、何か「和」でできないかと考えたそうです。母親が焼いた焼きそばがすごく美味しかったので、それをファーストフードにして店を出そうと考えたそうです。
そこで会社を辞め、当時乗っていたローレルを60万円で売って、それを元手に焼きそばとおむすびの専門店「ホットランド」を桐生市に創業しました。1988年7月のことだそうです。母親と2人で開業したそうですが、初日の売上はわずか350円、1食しか売れなかったそうです。
お店はラーメン屋の居抜き物件で2階は住居、家賃4万円の物件だったそうですが、後ろに渡良瀬川が流れていて、少し行くと下水処理場がある場所で人通りはなく、全く売れない環境だったそうです。2日目は近所の子供が来てくれて、700円の売上だったそうです。このままではマズイと考えた佐瀬氏は宅配焼きそばを始めることを決めたそうです。当時、新聞配達の仕事もしていたため、新聞を配るついでに「焼きそば届けます」と書いたチラシを配ったそうです。すると、その作戦が見事当たったそうです。たくさんの注文が入るようになり、焼いては配達するというのを繰り返す毎日になったそうです。お客さんの方が心配して「こんなに遠くまで持ってきて、それで350円で勘定合うの?」と言ってくれることもあったそうですが、「暇よりはいいですから」とせっせと忙しく働く生活を2年間続けたそうです。
そんなある日、当時の彼女(=今の奥さん)のお兄さんと出会い、佐瀬氏の「マックみたいなファストフード店を『和』で作りたい」という夢を話すと、「一緒にやりたい」と言ってくれたそうです。そこからは2人で働くようになり、銀行から借金をして桐生駅の駅前に2号店を出店したそうです。朝6時から夜12時まで店を開いていたものの売上は増えず、毎日残り物を食べる日々だったそうです。
店舗だけでは厳しいので館林のつつじが丘公園で催事があると聞けば出店して、焼きそばを売ったりしたそうです。また、焼きそばだけでなく、アイスキャンディー、じゃがバターなど様々なものを売ったそうですが、なかなか業績は上がらなかったそうです。
そんなある日、佐瀬氏はテレビでソフトクリームが大人気で行列ができているというニュースを見たそうです。羽生のその店では牛乳でソフトクリームを作っていると聞いたため、その店に何度も通って製法を教えてもらい、店の商品に加えたそうです。すると、このソフトクリームが売れに売れたそうです。ソフトクリームが売れると焼きそばもおにぎりも売れ出して、たちまち繁盛店になったそうです。
すると佐瀬氏は、これをもっと大きな商売にしたいと考え、ソフトクリームではなく、アイスまんじゅうを作ったそうです。アイスまんじゅうとは、ソフトクリームを絞ってあんこを入れた商品で、これがバンバン、売れたそうです。
ようやく売れるものを見つけたと思った佐瀬氏は、当時住んでいた6畳間のアパートの一角をソフトクリーム工場にしたそうです。部屋を改装してアイスクリーム製造業の許可をもらい、湯飲み茶わんを500個買ってきて、手作業でソフトクリームを絞ってあんこを入れて、アイスまんじゅうを作ったそうです。そのアイスまんじゅうを夜、横浜の中華街まで売りに行ったそうです。中華まんを売っている隣で、「中華アイスまんじゅう」って名前で売ったら滅茶苦茶、売れたそうです。
持っていくと、たった5分で売り切れたそうです。しかし、桐生から行くには5〜6時間かかります。「早く持って来い」って言われて、6時間かけて戻って、また作るということを繰り返すと寝ている時間がなくなり、体調を崩したそうです。
そんな時、家業を継いでいた兄が「守男は売るのがうまい。俺は鉄工所だから作るのができる。一緒に会社を作ろうぜ。アイスをいっぱい作って、全国に売ろうよ。」と言ってきたそうです。そこで1991年(平成3年)6月に株式会社ホットランドを設立したそうです。
1億円くらいの借金をして、アイスを製造する自動機械を買って、バンバン、アイスを作ったそうです。日本中の観光地に卸したり、中華街の中でも20軒、30軒と卸したそうです。しかし、徐々に売れなくなったそうです。
アイスまんじゅうという商品が難しいせいかと思って、昔ながらのアイスキャンディーを作ったそうですが、売れなかったそうです。コンビニエンスストアのケースに入れてもらったりしたそうですが売れず、在庫が増え、借金を返せないような状態になったそうです。そこで苦し紛れに自転車を買って、茶箱にアイスを入れて、銀座のホコ天へ行って、「チリン、チリン、アイスキャンディー、いかがですか」って言って売り歩いたそうです。すると、滅茶苦茶、売れたそうです。
佐瀬氏は「これだ」と思い、アルバイトを50人ぐらい集めて、みんなで「加トちゃんペ」の格好をして、銀座のホコ天中で売り歩いたそうです。すると、そのひと夏で1億円ぐらい売ったそうです。これでやっと何とかなるななんて思っていた佐瀬氏ですが、秋になり、冬になると、全く売れなくなったそうです。
そこで冬は、水上とか、その先の湯沢へ行って、「湯上りアイスキャンディー、いかがですか」と言って売っていたそうですが、それほど売れなかったそうです。ただ、みんな関越自動車道を使って、新潟方面にスキーに行き、帰りのサービスエリアで大渋滞になっていることが分かったそうです。そこで何か商売ができたら、儲かるのではないかと思ったそうです。
しかし、お金もないし、アイスキャンディー売れない状況で、できることが限られていたそうです。そんな時、ふと畑を見たらジャガイモがいっぱいあったそうです。佐瀬氏は「これだ」と思ったそうです。そこで、じゃがバターを売りたいと高速道路にお願いをして、テントを張らせてもらってサービスエリアでじゃがバターを売ったそうです。滅茶苦茶、売れたそうです。土曜日、日曜日は100〜200万円も売れたそうです。
ただ、帰りのトラックの中で佐瀬氏は、名のないテントで、本当に売りたいかどうか分からないじゃがバターを売っている現実を考えると、空しいとか、せつない気持ちになったそうです。この殺伐とした時代の中に、ホッとした場所とか、ホッとした商品を供給したいという思いがある「ホットランド」という社名を使えないことに寂しさを感じたそうです。
そんな中、ある社員が「社長の夢は何ですか?ファストフード、どこへ行っちゃったんですか?」って言ってきたそうです。さらに「マックを超えるのが夢なんじゃないんですか」と言われて、「ああ、そうだな」って思い直して、日銭を稼ぐ仕事を止めることにしたそうです。高速道路だけで8ヶ所やっていたそうですが、その一冬で止めたそうです。
ただ、少し、お金ができたので、もう一回やり直そうと考え、そのお金を全部使って、大間々のショッピングセンターさくらもーるにファストフードのホットランドという、和風ファストフードショップを出したそうです。店では焼きそば、おむすびの他に、初めてたこ焼きを出したそうです。最初の3ヶ月くらいはすごく売れたそうですが、徐々に売上が減っていったそうです。売れなくなると焦りが出てきて、新しい商品に手を出すようになったそうです。お好み焼き、今川焼などをはじめ、カレーを増やし、ラーメンを追加しと、ドンドンメニューは増えるが、結局、売上が上がらなかったそうです。
すると経費を減らすために人を減らすようになり、すると注文に間に合わなくなるので、料理を作り置きするようになり、すると美味しくないので売れなくなる、という悪循環にはまったそうです。佐瀬氏が店へ行った時、ホットショーケースに、その朝、自分が焼いた料理が並んでいるのを見て、やっと考えが間違っていたことに気付いたそうです。佐瀬氏は「ファストフードというのは、注文を受けてすぐにパッと渡すものだと思っていたけれど、お客さんが望んでいるのは少々待ってでも熱々の出来立てなんじゃないか」、「目の前で作っていることが見られるシズル感や匂いが重要なのではないか」、と思ったそうです。
そして、佐瀬氏は社員を集めて「全部やめる。焼きそばもやめる。おむすびもやめる。ここにあるホットショーケース、全部捨てよう。作り置きは止めよう。これからは、たこ焼き一本に絞る!」と宣言したそうです。
元々、焼きそば屋だったため、当然、焼きそばが一番売れていたそうです。当時の1日の売上は2万円しかなく、さらにたこ焼きの売上は2,000円しかなかったそうです。社員は大反対だったそうですが、佐瀬氏はずっとお客さんを見ていて、タコ焼きは客層が広いことに気付いたそうです。年寄りから小さな子供までがタコ焼きを食べており、売れていないながらも、たこ焼きだけは時間帯に関係なく売れていたそうです。さらに、季節にも関係なく売れていたことから佐瀬氏は「あ、この商品いいな」、「もっと極めたいな」と思ったそうです。
ただ、デベロッパーの人にその話をしたら、「おまえ、何言ってるんだ。お前のところのたこ焼き、そんなに旨くねえぞ。うまいもん、作ってから言え」って言われたそうです。そこで佐瀬氏は「旨いタコ焼きを作らなきゃ」と思ったそうです。
そこで、佐瀬氏はたこ焼きのことを本当に勉強しようと思ったそうです。そこで本場、大阪へ行ってみようとか、日本中でたこ焼きを食べてみようと思って、アイスキャンディーを配達しながら、食べ歩きを続けたそうです。そして半年くらい大阪に住んで、ほぼ全店を食べ歩いたそうです。各店の味の違いに驚くとともに、焼き手が楽しそうなことに感銘を受けたそうです。
すると、もっと旨くするには素材が重要だとか、粉のことは粉屋に行かないと分からないとか、青海苔は四万十川へ行って現場を見たいとか思うようになったそうです。たこ焼きと言えばタコが重要だと考え、朝早く起きて築地に通ったそうです。すると築地の魚河岸の社長と仲良くなって、タコの話を沢山、聞かせてもらったそうです。すると、段々イメージが出てきたそうです。佐瀬氏がイメージしていたのは、皮がパリッとして、粉っぽくなく、中身はトロッと感があって、タコはプチッと噛み切れて、柔らかい海の旨味がバーッと口の中に広がる、といったタコ焼きだったそうです。そのタコ焼きをホットショーケースなんか使わないで、「見て、見て」って、お客さんの目の前で格好よく焼く、という業態に拘ったそうです。
ただ、イメージしても、実際には様々な問題があったそうです。例えば、タコは熱を加えると固くなるため、固くならないようなタコ作りが必要だったそうです。佐瀬氏が表面をパリッとする方法を考えていた時、テレビで北京ダックを作っているシーンを見たそうです。佐瀬氏は「これだ」って思って勉強したそうです。すると、熱い油を表面にかけることによって、中にある無駄な脂が引っ張り出されて、その勢いで皮がパリッとするという北京ダックの手法を知ったそうです。佐瀬氏は、このやり方をたこ焼きに使えないかと思ったそうです。
色々、試したものの、火傷をしたり、ボヤ騒ぎを起こしたりと、なかなか思ったようなタコ焼きができなかったそうです。そんな時、鉄工所をやっていた兄に「俺、こういう風に焼きたいんだよ。機械を作ってくれ。」と相談したそうです。すると、まずは鉄ということで、鉄について調べた結果、一番、遠赤外線が出るのが南部鉄だということが分かったそうです。そして南部まで行って、鉄器屋さんでたこ焼きの焼台を作ってもらったそうです。それから油をかけても火が出ないかなど、改良を続けること2年もかかって、何とか目的とする焼き台ができたそうです。
そして1997年3月14日、群馬県新田郡笠懸町(現、みどり市)のショッピングセンター、アピタ笠懸にたこ焼店、築地銀だこをオープンしました。タコの勉強をするために築地に通っていた時、魚河岸の小父さん達の格好いい粋な姿を見ていたため、江戸前の良さとか、それを表現する言葉として「築地」と付けたそうです。また、銀座でアイスキャンディーを売っていた時、ここに店があったらいいなと思っていたそうです。そこで銀座の「銀」を付けて「銀だこ」としたそうです。
その初日、最初の1個が、なかなか売れなかったそうです。10時にお客さんがウワーっていっぱいショッピングセンターに入ってきたものの、タコ焼きはなかなか売れず、最初の1個が売れたのは11時15分だったそうです。女性のお客さんが「たこ焼き、ください」って来て、ドキドキしながら、みんなで本当に「ありがとうございます!」って言ったそうです。みんなというのは店員ではなく、佐瀬氏の父親、母親などだそうです。佐瀬氏の周りで佐瀬氏の人生に関わってきた全ての人が、ドキドキしながら1個目が売れるのを見守っていたそうです。その後、少しずつ売れるようになり、午後には行列ができるようになったそうです。結局、2日目以降も毎日、大行列ができる繁盛店になったそうです。
佐瀬氏が次の店を出したいと考えていた頃、北海道から55歳の見も知らない小父さんが、佐瀬氏の家に訪ねてきたそうです。「たこ焼き屋をやりたいんだけど、フランチャイズやってますか」と言われて、「いや、そんなの、北海道なんて無理だよ。しかも、たかが1店舗、田舎で成功しただけだよ」と断ったそうです。しかし、何度もその人が桐生まで来るうちに、「私は家具屋をやっていた。でも、倒産させてしまった。何をしたらいいかわからなかった。一つだけあったのが、私の知人で桐生にいる人が、『桐生にすごいたこ焼き屋ができたよ。これを北海道で、まだ誰もやってないから、やったらいいんじゃないか』と。僕はそれにかけて、桐生に来て食べた。そしたら、すごく旨かったので、僕はこれをやりたいんだ」って言ったそうです。そんな話を聞いた佐瀬氏は、感じ入ってしまい、「じゃあ、一緒にやってみる?」って言い、現場に入ってもらったそうです。55歳だから体力的に無理かなと思っていたにも関わらず、ものすごく頑張ったそうです。そこで「じゃあ、やってみるか」って出したのが2号店で、何と2号店が苫小牧だったそうです。
翌1998年10月には東京初出店となるサンモール中野店をオープンしました。翌1999年5月には国内で50店舗を達成していますので、かなり早い出店ペースです。2000年2月には国内で100店舗になっています。2024年12月末時点で築地銀だこは、国内で419店舗(直営は174店舗)を運営しています。ちなみに1号店はアピタ笠懸の閉店に伴い、2017年2月20日で閉店しています。
さらに現在では、ホットランドホールディングスとして様々なブランドの飲食店を展開しています。

・ぜったいうまい!!たこ焼

・ねぎだこ

・築地 銀だこ アピタ笠懸店
住所:群馬県みどり市笠懸町阿左美1285-1
オープン日:1997年3月14日
※ 2017年2月20日で閉店
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