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更新日:
2026年2月1日
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◎きりたんぽ(2026年1月31日)
「きりたんぽ」は、ご飯を串に巻き付けて焼いた秋田県北部地域の伝統的な郷土料理です。半づき(「半殺し」とも)にした米を杉の串に巻き、こんがり焼いて鍋や味噌付けで食べます。鶏の出汁が効いた「きりたんぽ鍋」が代表的な食べ方で、新米が収穫される秋から冬が旬です。
「きりたんぽ」の発祥については諸説あるそうですが、220年以上前、江戸時代に奥羽山脈の北方にある山深い秋田県鹿角(かづの)地方で生まれたという説が有力だそうです。農業に携わる傍ら、鉱山精錬所の坑内で使う木材を切り出す「きこり(山子、樵)」が山中で食べていた保存食がその始まりだとされています。「きこり」は夏に木材を伐採し、冬は伐採した木材を雪道で運搬する重労働です。そのエネルギー源として生まれたのが、杉の串にご飯を巻き付け、焚き木で温めた二尺余りもある「たんぽ焼き」だったそうです。「きこり」は、山小屋で素焼きした「たんぽ」に、山椒味噌やクルミ味噌などをつけて食べていたそうです。昔から「きこり」たちは、山に常備する食のことを「たんぽ焼き」と呼んでいたそうです。
その「たんぽ焼き」は、現在の「きりたんぽ」とは異なり、巨大なおにぎりだったそうです。山仕事は体力を必要とする男の仕事であることから、お櫃(ひつ)の蓋を使って御飯をおにぎりの形に整えた大きなおにぎりを作って持参していたそうです。
冷えた状態では固くて美味しくないので、おにぎりを温めて食べる方法を思案した結果、木の棒に巻き付けて焚火で焼くことを考え付いたそうです。その結果、この「たんぽ焼き」は二尺(約70cm)もある大きなものだったそうです。これを焚き木で焼いて食べる「たんぽ焼き」が生まれ、木こり達の間で普及していったそうです。
この「たんぽ」という名前の由来ですが、鹿角地方では「蒲の穂」を「たんぽ」と呼んでいて、串に飯を握りつけた形が「蒲の穂」に似ていることから「たんぽ」と呼ばれるようになったようです。
その後、鹿角や隣接地の大館では、「たんぽ」を家庭料理として食べるようになったそうです。当時、家庭には囲炉裏があったことから、「たんぽ焼き」は、どの家庭でも食べることができました。
また、この「たんぽ」を鍋の具材として食べる料理も自然発生し、自然に広がっていったようです。「たんぽ」は鍋に入れるには長すぎるため、短く切って鍋に入れました。このため鍋の具材に使う「たんぽ」は「切りたんぽ」と呼ばれるようになり、「切りたんぽ」が入った鍋は「切りたんぽ鍋」と呼ばれるようになったようです。
明治初期には鹿角や大館地域では、新米の収穫時期のハレの日の料理として「きりたんぽ鍋」が食べられ、普及していたそうです。明治45年頃には「きりたんぽ鍋」が料理屋で提供されるようになったそうです。昭和9年(1934年)10月25日には、秋田県川反の料亭「濱の家」の主人が秋田放送局から、きりたんぽを全国に向けて紹介したそうです。さらに、昭和20年頃からは秋田県の名物料理として宣伝されるようになったそうです。ただし、秋田県北部地域の料理であり、由利本荘市、大仙市、横手市、湯沢市など、秋田県南部地域では知名度もなく、知られていなかったようです。
この「切りたんぽ鍋」が広く知られるようになったのは、昭和36年(1961年)に秋田で開催された第16回国民体育大会だったそうです。「明るい国体」をスローガンに19,859名の参加者(夏季大会、秋季大会、冬季大会の合計)がいたそうですが、当時、秋田県内では、これだけの人数を受け入れるのに十分な宿泊施設を確保することができなかったそうです。このため約7,000名は一般家庭に宿泊してもらう「民泊」を導入することで解決したそうです。
この時、料亭「濱乃家」の主人、竹島武知氏の声掛けで、秋田市内の料亭組合12件が「きりたんぽ」を料理の一品に加えることで結束し、和食業界が追随したそうです。それまでは「タンポ鍋」、「名物きりたんぽ」など、様々な呼ばれ方があったそうですが、名称を「郷土料理きりたんぽ」と統一し、「切りたんぽ」を「鍋料理の名称」としてPRしたそうです。その結果、現在では「切りたんぽ」は「鍋料理」の名称として認識されています。

◎きりたんぽ鍋(2026年1月31日)
現在では秋田を代表する郷土料理の1つとされています。特に決まった作り方はないようですが、鶏のガラでとった出汁と醤油ベースのスープ、鶏肉、野菜に切りたんぽが入っていれば「切りたんぽ鍋」になるようです。秋田では、鶏として比内地鶏を使うことが一般的なようです。
元々、秋田県大館市南東部の比内地区では比内鶏という地鶏が飼育されていました。その地鶏は純粋な東北型日本地鶏でしたが、「成長が遅い」、「体が小さい」、「耐病性に劣る」などの理由で絶滅寸前の危機を迎えていたそうです。野鶏に近く、品種改良もされていない貴重な存在であったことから、昭和17年(1942年)7月21日に秋田原産種の地鶏として比内鶏は国の天然記念物に認定されました。すなわち比内鶏は、一般には食べることができなくなりました。そこで昭和48年(1973年)に比内町の町長、千葉久右衛門氏の声かけで、秋田県畜産試験場の本郷直喜氏が中心となって比内鶏の雄とロードアイランドの雌とを掛け合わせた一代交雑種の「比内地鶏」が誕生しました。この「比内地鶏」は、「歯ごたえはあるが加熱しても固くなり過ぎず、肉の味が濃い」、「濃厚な脂の旨み」など、比内鶏の特長を色濃く受け継いでいるそうです。このため「比内地鶏」は切りたんぽ鍋に欠かせない具材として、広く認知されるようになりました。

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