うばがもち、姥が餅

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更新日:
 2024年9月29日



◎うばがもち、姥が餅(2024年9月25日)
 「姥が餅(うばがもち)」は滋賀県草津市で製造、販売されている和菓子で、あんころ餅の一種です。乳母が幼君に奉じた乳房を模しており、乳房を型どっているのが特徴です。「姥が餅」は戦国時代、永禄年間(1558年~1570年)に広まったとされています。
 永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始した時、近江国の守護であった六角義賢(佐々木義賢)は織田信長の従軍要請を拒絶し、織田軍と戦いました。しかし、永禄11年(1568年)9月12日、箕作城と和田山城が1日で落城したことを知った六角義賢は観音寺城を放棄し、甲賀に逃走しました。
 この時、一族も散り散りに逃走することになったようですが、その中に3歳になる六角義賢の曾孫もいたそうです。六角義賢は、乳母であった「福井との」を招き、ひそかに後事を託したそうです。乳母はその旨を守り、郷里、草津に身を潜め、幼児を抱いて住来の人に餅を作って売り、養育の資として質素に暮らしたそうです。周囲の人達は乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言いはやしたといわれているそうです。
 その後、時代が下り、関ヶ原の戦いを経て徳川方が勝利した後、徳川家康が大坂の陣に赴いた際、当時84歳で健在だったその乳母が餅を献じたそうです。徳川家康は、その乳母の長寿を喜び、その誠実な生き方を称え、「養老亭」と書いた3字の額を送ったそうです。そして勝利の凱旋後、徳川家康が駕籠をここで止めたことから、それ以降、公卿や諸大名が必ずここで餅を求めたといわれているそうです。ちなみに、この乳母には後日談があり、その後、102歳まで生きたと伝えられているそうです。
 東海道五十三次の1つで、東海道と中仙道が合流する交通の要衝、近江路随一の宿場町だった草津宿では、多くの茶屋が立ち並び、「姥が餅」を提供していたそうです。この草津宿の「姥が餅」は有名になり、草津名物として定着したそうです。草津では「瀬田へ廻ろうか 矢橋へ下ろうか 此処が思案のうばがもち」という歌も流行ったそうです。