二八そば、二八蕎麦、にはちそば

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更新日:
 2025年7月20日



◎二八そば(2025年7月13日)
 「二八そば」とは、蕎麦を打つ時、つなぎとして小麦粉を20%入れた切り蕎麦のことです。切り蕎麦がいつから作られるようになったかは明確ではないようですが、小麦粉のつなぎを入れて打つようになったのは江戸時代、18世紀の初め頃だそうです。
 18世紀の初め頃、小麦粉のつなぎを入れて蕎麦粉を打つようになったそうです。この「二八そば」が登場するのは享保年間(1716年~1736年)で、当時は物価統制があり、うどんや蕎麦は16文だったそうです。「2×8=16(にはち16)」ということで、江戸っ子の洒落で「16文の蕎麦のこと」を「二八蕎麦」と呼んだようです。この時のつなぎの割合は不明ですが、つなぎが入った蕎麦のことを単に「二八蕎麦」と呼んでいたのかもしれません。
 1753年(宝暦3年)に書かれた「絵本江戸土産」の「あさ草なみ木町(浅草並木町)」には浅草寺の門前町が書かれていますが、そこには「二八そば切 うんどんや(うどん屋)」と書かれています。「絵本江戸土産」の他の挿絵には「二六新そば」、「二六にうめん」も書かれているそうですので、「二六」、「二八」は値段から来ているものと考えて間違いないと思います。
 1830年頃に歌川国芳が画いた「山海名産盡 信濃蕎麦」には「信州名物 二六」と書かれています。すなわち、ここでは12文で信州名物の蕎麦が売られていたのだと思います。さらに十返舎一九が1861年(文久元年)に記した「滑稽栗毛の弥次馬」には蕎麦屋の絵がありますが、そこには「二八 そば切 うんとん(うどん)」と書かれています。これらから「二八そば」という名称は金額から生まれたことは間違いないと思います。
 しかし、慶応年間(1865年~1868年)になると物価が高騰し、蕎麦の値段が20文を超えるようになったそうです。看板を書き換えないで済ますには、「二八」の意味は金額では無いと説明するしかなく、慶応年間以降、「二八」の意味は小麦粉(つなぎ)と蕎麦粉の割合だとして説明されるようになったようです。