そば切り、蕎麦切り、そばきり

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更新日:
 2025年6月25日



◎そば切り(2025年6月10日)
 「そば切り(そばきり)」は、「蕎麦」の食べ方の1種で、「麺の形状」にした「蕎麦」のことを指します。江戸時代以前の昔は「そば」と言えば団子状で、現在で言うところの「そばがき」に近い形のものだったようです。「そばがき」や「そば焼き餅」に対して、細長く切った麺状の「そば」は「そば切り」と呼ばれ、団子状のものとは区別されていたそうです。ただ現在は、この麺状の「そば」が普及していますので、現在、単に「そば」と言う場合は「そば切り」のことを指しており、わざわざ「そば切り」と呼ぶことはありません。
 いつからそば切りが食べられるようになったかは定かではないそうですが、少なくとも戦国時代には作られていたという記録が残っているそうです。蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録だそうです。1574年(天正2年)初めに定勝寺の仏殿修復の落成の際、寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認できるそうです。すなわち「定勝寺の修復工事で金永からそば切が振舞われた」と書かれており、この時には蕎麦切りが存在していたことの証明とされています。
 その後、1614年(慶長19年)の慈性日記(2月3日)に「常明寺でそば切を振舞われた」、1622年(元和8年)の松屋久好茶会記(12月4日)には「茶会でそば切を出した」、1642年(寛永19年)の幕府御触書に「飢饉対策でそば切、うどん等、穀物加工品の売買を禁じる」など、様々な文献に「そば切」が現れるそうです。1643年(寛永20年)に書かれた料理書「料理物語」には饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っているそうですので、この時代には蕎麦切りは広く普及していたものと考えられます。また、「だし汁」の作り方も記載されているそうです。「蕎麦切り」という料理が確立されて以降、江戸時代初期には文献に頻繁に記載されるようになり、特に寺院では「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりしたそうです。
 その「蕎麦切り」が普及したのは18世紀の江戸時代だと考えられているそうです。何か1つの原因ではなく、様々な要因があって広く普及するようになったと考えられているそうです。その1つの要因は「二八そば」だそうです。18世紀の初め頃、小麦粉のつなぎを入れて蕎麦粉を打つようになったそうです。この「二八そば」が登場したのは享保年間(1716年~1736年)で、当時は物価統制があり、うどんや蕎麦は16文だったそうです。「2×8=16(にはち16)」ということで、江戸っ子の洒落で「16文の蕎麦のこと」を「二八蕎麦」と呼んだようです。
 この「二八蕎麦」が普及した要因の1つが屋台だそうです。寛延年間(1748年~1751年)から安永年間(1772年~1781年)頃には江戸市中でそば屋の数がぐんと増えたそうです。江戸時代は男性庶民の数が多く、料理をしないことから、簡単に食べられる蕎麦が普及したと考えられているそうです。また、関西ではうどんが主流ですが、江戸(関東)では蕎麦が主流になったのは、江戸っ子は気が短いからだ、と言う説もあるそうです。うどんも蕎麦も同じ値段だったようですが、うどんの方が湯で時間が長いため、早く提供される蕎麦が人気になったという説です。
 さらに18世紀後半になると安くて品質の良い関東の地回り醤油(濃口醤油)が、江戸市中に大量に出回るようになったそうです。江戸そばには汁が必要ですから、醤油の普及も蕎麦が発展した理由の1つとして考えられるそうです。
 すなわち18世紀の江戸時代に「蕎麦切り」が普及したのは、扱いやすく食べやすい「二八そば」の発明、屋台による蕎麦屋の数が増えたこと、関東で質が良い醤油が普及したこと、江戸っ子が短気だったことなど、多くの要因が重なり合ったことが要因だと考えられます。
 この18世紀に江戸で普及した二八蕎麦は、皿に乗せた冷蕎麦に熱い汁をぶっかけた「ぶっかけ蕎麦」だったそうです。また、薬味(大根おろし、陳皮、七味唐辛子など)は別料金だったそうです。江戸時代の末期になると「種もの」と呼ばれる「具入り蕎麦」が発明され発展し、「あんかけ」、「あられ(青柳の貝柱を海苔の上に散らした蕎麦)」、「天ぷら(芝海老のかき揚げ)」、「花まき(もみ海苔を散らした蕎麦)」、「しっぽく(玉子焼き、蒲鉾、椎茸、クワイなどを乗せた蕎麦)」や「卵とじ」などが登場したそうです。