沢庵漬け、たくあん

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更新日:
 2025年7月13日



◎沢庵漬け、たくあんづけ、たくあん、たくわん(2025年7月12日)
 「たくあん漬」とは、大根を塩と米ぬかに漬けて発酵させた「大根のぬか漬け」、「大根の漬物」です。収穫した大根を2週間から20日ほど天日干しし、日に日にしぼんでいって曲げても折れない程度に乾燥した大根を取り込み、米ぬかと塩でじっくりと一本漬けして作ります。やや強めの塩味とパリパリとした食感が特徴の食べ物です。
 日本農林規格では、「たくあん漬け」は「農産物ぬか漬け類のうち、干しあげ(天日干しで水分を除くこと。以下同じ。)又は塩押し(塩漬けにより水分を除くこと。以下同じ。)により脱水しただいこんを漬けたものをいう。」と定義されています。ちなみに「農産物漬物」は「農産物(山菜、きのこ及び樹木の花、葉等を含む。以下同じ。)を塩漬け(塩漬けの前後に行う砂糖類漬けを含む。)し、干し、若しくは湯煮したもの若しくはこれらの処理をしないもの又はこれに水産物(魚介類及び海藻類をいう。以下同じ。)を脱塩、浸漬、塩漬け等の処理をしたもの若しくはしないものを加えたもの(水産物の使用量が農産物の使用量より少ないものに限る。)を塩、しょうゆ、アミノ酸液(大豆等の植物性たん白質を酸により処理したものをいう。以下同じ。)、食酢、梅酢、ぬか類(米ぬか、ふすま、あわぬか等をいう。以下同じ。)、酒かす(みりんかすを含む。以下同じ。)、みそ、こうじ若しくは赤とうがらし粉を用いたものに漬けたもの(漬けることにより乳酸発酵又は熟成しないものを含む。)又はこれを干したものをいう。」と定義されており、「農産物ぬか漬け類」は「次に掲げるものをいう。(1)農産物漬物のうち、ぬか類に砂糖類、塩等を加えたもの(以下「塩ぬか」という。)に漬けたもの、(2)(1)を砂糖類、果汁、みりん、香辛料等又はこれらに削りぶし、こんぶ等を加えたものに漬け替えたもの、(3)(1)を塩ぬかに砂糖類、果汁、みりん、香辛料等を加えたものに漬け替えたもの」と定義されています。
 全国的に漬けられ、食べられていますが、山形県上山市が沢庵漬の名称発祥地とされています。これには江戸時代、1627年(寛永4年)に起きた幕府と朝廷の権力争いである「紫衣事件」が関係しているそうです。元、京都の大徳寺の首座だった沢庵宗彭(たくあんそうほう)は妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に幕府に対する抗弁書を書き上げ、1628年(寛永5年)に幕府に提出しました。しかし、この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われることとなり、1629年(寛永6年)7月、沢庵は出羽国上山(現在の山形県上山市)、単伝士印は出羽国由利(現在の秋田県由利本荘市)、東源慧は陸奥国津軽(現在の青森県弘前市)に流罪とされました。
 配流先の上山藩主、土岐頼行は沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇しました。沢庵は、その草庵を春雨庵と名付けたそうです。春雨庵には地元の人々から様々な作物が届けられ、そこには大量の大根があったそうです。沢庵は、食べきれない大根を干して漬け込み、大根の漬物、「たくわえ漬」として保存食にしたそうです。
 「大根の漬物」は平安時代中期、承平年間(931年~938年)に勤子内親王の求めに応じて源順が編纂した辞書である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に記載があるそうですので、沢庵が生み出した食べ物ではありません。多分、京都の大徳寺だけでなく、様々な寺社で保存食を作る手法は伝えられていたものと考えられます。ただし、その作り方が普及していたかどうかは不明です。
 沢庵は、自らその製法を地元の人々に伝えたといわれ、冬の寒さが厳しい秋田県などの東北地方では貴重な保存食になったものと考えられます。この地域では、その製法が広く伝わり、上山の郷土の味となったとされています。
 ちなみに沢庵和尚伝授によるたくあん漬の作り方は、大根50本で塩分15~17%だそうです。まず桶(樽)の底に米ぬかと塩を撒き、大根の頭を揃えながら隙間なく一列に並べ、再び米ぬかと塩を撒くそうです。これを繰り返してから上面に米ぬかと塩を撒き、最後に重石(軽く)を乗せ、6~12ヶ月漬け込み、発酵させれば出来上がりだそうです。当時のタクアンは、現在のたくあん漬より塩分が3倍から5倍ほどある、塩辛いものだったとそうです。
 なお、「たくあん漬(沢庵漬)」の名を広めたのは、三代将軍、徳川家光と伝えられているそうです。1632年(寛永9年)、沢庵が60歳の年、大御所、徳川秀忠の死による大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力によって紫衣事件に連座した者たちは許されたそうです。
 沢庵は江戸に出て、神田の広徳寺に入ったものの、京に帰ることは許されず、駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、ここに留まったそうです。そして天海、堀直寄、柳生宗矩の強い勧めによって家光に拝謁したそうです。すると、この後、家光は沢庵に帰依するようになり、沢庵は家光に近侍することとなったそうです。
 1639年(寛永16年)、徳川家光は東京都品川区北品川に東海寺(とうかいじ)を創建し、沢庵を住職としました。ある日、家光が東海寺の沢庵和尚のもとを訪れた際、「和尚、余は近頃何を食べても味がなくて困る。なにか口に合うものがあれば食べさせてくれ。」と求めたそうです。沢庵は、「それはおやすい御用でございます。明日午前10時ごろ、拙僧のところへおいでください。もっとも当日は、私が主人で殿は客、わがままを言われても困ります。それだけはご承知ください。また、どんな用があってもご中座されません様お願い申し上げます。」と答えたそうです。
 翌日、家光が沢庵のところへやってくると、沢庵は家光を茶室に案内し、「しばらくお待ちください。」と下がってしまったそうです。その後、待てど暮らせど一向に和尚は出て来なかったそうです。朝の10時から待たせておいて、昼になっても現れず、3時になっても現れなかったそうです。腹が減って目が回りそうになった頃、沢庵が現れ、「遅刻致し恐れ入ります。沢庵手製の料理、ご賞味ください。」と、御膳を差し出したそうです。
 お膳には椀と黄色いものが二切れ皿に乗っていただけだったそうです。椀の中には飯が入っていて、湯がさしてあったそうです。腹が減っていた家光は、「和尚、馳走になるぞ。」と椀を抱え込み、ガツガツカツカツと食べ出しました。さらにお代わりもして、お腹が一杯になった家光が「和尚、この黄色いものは一体何か。」と問うと、沢庵は「それは大根の糠づけでございます。」と答えたそうです。そして沢庵は、「上様は結構なるものを毎日お膳に供えて、それに口がなれて旨味がございませぬ。つまり口が贅沢になっているからでございます。故に今日、空腹になるのを待ち、かような粗食を差し上げたのでございます。」と説明すると家光は怒ることもなく、「美味じゃ。」と言ったそうです。沢庵は「以後、空腹になるのを待ってお食事されるとよろしゅうございます。」と諭したそうです。
 後日、家光は沢庵を招き、改めて、その時の食べ物について話をしたそうです。沢庵は、特に呼び名はなく、保存食として作っており、「貯え漬け」と呼ぶものもいると言ったそうです。そこで家光は、改めて「たくあん漬け」と名付け、作り方を広め、庶民の保存食として普及させるよう指示したそうです。
 ちなみに東海寺では、禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、「沢庵」ではなく「百本」と呼んだそうです。
 また、「たくあん」は、定食屋などでは「二切れ」で提供されることが多いです。これは江戸時代、「一切れ」は「人切れ」、「三切れ」は「身切れ(=切腹)」、「四切れ」は「世切れ、予切れ」となり、言葉の意味が縁起が悪いということから、「たくあんは二切れで提供する」となったという説があります。



 ちなみに現在では、沢庵の漬け方は大きく分けて3種類あるそうです。
①干さずに食塩で水分を抜いた後にぬか床に漬ける方法。
②天日干しして水分を抜いた後にぬか床に漬ける方法。
③屋内で燻して水分を抜いた後にぬか床に漬ける方法。
 上記の②が、沢庵和尚が作っていた方法で、現在では「本干し沢庵」とも呼ばれるようです。昔は、この作り方が主流でしたが、天日干しするためには場所が必要です。そこで東京などの地域で①、干さずに沢庵を作る方法が生み出されたようです。この沢庵は「生たくあん」、「塩押したくあん」などと呼ばれています。
 「塩押したくあん」は食塩水などの調味液に生の大根を漬けて作ります。生の大根には95%くらいの水分があるそうです。このため塩分濃度が異なる食塩水を3回ほど使って大根の水分を取り除くそうです。一般的に「一押し」では、多めの食塩を使って短期間で大根を漬け込み、大根の水分を抜きます。そして「二押し」では、少量の食塩を使って一押しより少し長く漬け込み、大根内の水分を均等にし、仕上がりの品質を高めます。最後に「三押し」で、保存期間に応じた食塩と米ぬかを使って漬け込み、たくあんにするそうです。このように「塩で水分を押し出す」ことから「塩押したくあん」と呼ばれるそうです。